土沼隆雄 博士(工学) PhD.
(株)要松園コーポレーション 代表取締役
【職歴】
1978年01月 | 東京庭苑株式会社 入社 |
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1985年04月 | Japanese Garden Society of Oregon USAに造園ディレクターとして日本庭園築造に従事 |
1987年10月 | 帰国 |
1988年02月 | (株)要松園コーポレーション代表取締役に就任 |
1995年01月 | 有限会社緑事務所T&Dを設立し顧問に就任 |
1998年04月 | 新潟大学教育人間科学部 講師(〜2003年3月) |
2001年08月 | 有限会社緑事務所 取締役に就任 |
2003年04月 | 新潟工科専門学校 講師(〜2007年3月) 日本自然環境専門学校 講師 |
【社会活動など】
1990年06月 | 国際造園シンポジウム主催 |
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1991年10月 | 夢・まちづくりシンポジウム主催 |
1993年04月 | 夢・まちづくりシンポジウム主催 新潟市都市景観アドバイザー (〜1996年3月) |
1994年12月 | 新潟道路植栽基礎調査研究会 委員(〜1995年3月) |
1995年06月 | 新潟県景観デザイン委員会 委員(〜1996年5月) |
2006年02月 | 新潟県景観懇談会委員 |
2008年10月 | 新潟市指定管理者選定委員会 副委員長 |
2016年03月 | にいがた庭園文化交流協会 副会長 |
その他講演など多数
【個展】
2003年03月 | 第一回庭展(ポートランド日本庭園物語) |
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2005年10月 | 第二回庭展(佐渡緑水荘庭園物語) |
2013年02月 | 土沼隆雄展(日本庭園再考-社会の中の日本庭園) |
2018年06月 | 土沼隆雄 庭園スケッチ展 |
【学歴】
新潟大学大学院自然科学研究科環境科学専攻博士後期課程修了
【表彰など】
2010年10月 | Commendation:City of Portland USA. |
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2010年10月 | 表彰:在ポートランド日本国総領事館 |
【賞】
2010年 | 日本造園学会賞 奨励賞(技術部門) |
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2014年 | 日本造園学会賞(研究論文部門) |
2015年 | 東京農業大学造園大賞 |
【著書・論文など】
・著書
『住宅植栽マニュアル』(1994)建築知識 共著
『越後/新潟の庭園』(2014)東京農大出版会
『新潟の庭/スケッチ+実例紹介』(2018)株式会社博進堂
『庭園に想う‐庭園は文化の表看板—』(2022)株式会社博進堂
・学術論文
「新潟地方の史的庭園における地域性に関する調査研究(1998)」土木学会
「新潟地方の史的庭園における構成と環境要因に関する調査研究(1999)」土木学会
「史的庭園形成における地域性に関する研究(1998)」新潟大学学位論文
「ポートランド市ワシントンパーク日本庭園の成立過程の特徴に関する考察(1999)」建築学会
「ポートランド日本庭園のディレクターシステムが果した役割・意義と国際交流の多面的効果(2011)」(公社)日本造園学会
「(財)北方文化博物館と米国・箱根財団の姉妹庭園関係締結に至る経過とその意義(2013)」(公社)日本造園学会
「姉妹庭園関係の締結とその意義(2014)」日本庭園学会
「郷土造園家が担う庭園マネージメントと国際交流(2014)」日本庭園学会
「旧齋藤氏別邸庭園を事例とした近代和風庭園の保存のための調査・計画手法(2014)」日本造園学会
「旧齋藤氏別邸庭園における老アカマツの外傷治療・倒伏防止等の措置事例(2015)」(公社)日本造園学会
「新潟地方の庭園と地域性/現代にみる降雪への対応とその作庭事例(2023)」(公社)日本造園学会
・報告書
「旧齋藤家別邸庭園調査報告書(2012)」新潟市/東京農大国際日本庭園研究センター
【所属学会】/
(公社)日本造園学会 会員
人間・環境学会 会員
1. 海外における日本庭園の支援
海本庭園を外日守っていくために何が必要かについて講習
海外日本庭園を守っていくために必要な計画論
国境を越えた姉妹庭園締結、庭園を核とした地方の文化交流の始まり
2. 庭園についての記述
市民講座で使う庭園全般について記述した冊子
新潟の庭園を中心に庭園の本質や価値について近年の
話題も加えた解説
市民講座で使う資料として新潟の庭園をわかりやすく書いた冊子
新潟の財産としての旧齋藤家別邸庭園について、その特徴と
利活用について私見を整理した冊子
e.「ポートランド市ワシントンパーク日本庭園の
形成過程の特徴に関する考察
日本建築学会計画系論文集第521号1999」
世界に誇る海外日本庭園・ポートランド日本庭園の形成と管理運営の
プロセスを丹念に調べ上げて、その特徴を記述した論文
f.「Garden Directors Reunion :
Portland Japanese Garden(2010)」
ポートランド市で開催された庭園ディレクターの集いで発表した
内容を基にまとめたポートランド日本庭園の特徴と日本庭園の
今日的役割を記述した冊子
g.ポートランド日本庭園のディレクターシステムが
果した役割・意義と国際交流の多面的効果(2010)」
このシステムは,オレゴン日本庭園協会が庭園着工から現在に至るまで一貫して日本人造園家と関わりを持ってきた制度で、のちに庭園学芸員(2008)を誕生させ日本庭園の広域的ネットワーク化に着手
初期目標で北米日本庭園連絡協議会の設立を構想し、北米日本庭園連絡活動組織の活発化を図っている
海外における日本庭園については、日本的文化要素の一面として
広く海外各国でつくられてきた。海外で日本庭園をつくり、ここ
まで維持・継承することは並大抵のことではなかったであろう。
この先人たちの苦労ともいえる努力のおかげで、ようやくここに
来て日本庭園が海外でも注目されるようになってきた。
海外では、日本庭園には「何かある」と考えている人が多い。
私自身は、それは精神面に効いてくる何かで、例えば人の心を癒
す力ではないかと考えている。
しかし今、日本サイドが行う海外技術支援では、このことに一切
触れられていない。これでは世界の中の日本庭園はやがて社会か
ら見放され、形骸化してしまうだろう。
さて、このたび日本修景協会機関誌「造園修景」138号(2019)
の執筆に際し「小形会の海外技術支援、そのビジョンと方向」の
記述のなかで、あらためて日本庭園そのものの価値と存在意義を
原点に戻って触れてみたいと思う。
i.「新潟の庭園は文化の表看板
~にいがた庭園街道に思う~」
本文は、造園修景No.140、2019.09(一般財団法人 日本修景協会)の特集「ガーデンツーリズムと造園修景」の中の新潟地域の活動(にいがた庭園街道)について、依頼を受けて記述したものです。
もともと新潟地方では、他の地方と違い、特色のある地域性庭園を成立させた文化があり、派手ではないけれど人々の生活と密着し、その土地で醸成された歴史や地域の香りが色濃く刻印されており、一面、他の地方庭園と同様、結果として「観光」という光が過度に当たらなかったために変色することなく、大変な苦労を重ねながらも我が家、我が町の大切なものとして継承され残ってきました。
さて、全国的な動きを見せるガーデンツーリズムに登録された「にいがた庭園街道」はこの庭園群と幾つかの観光要素をからめて巧みにツアー化したものですが、記述では、特にこの活動の背景となった市民の海外交流や庭園保存運動、幾つかの学会研究論文及び著書などを記載し、加えて庭園の特色を加筆するなど、新潟のガーデンツーリズムは、このような地方地域の研究及び市民の諸活動にしっかりと裏打ちされているところに他の地方と違う特色があることを明記しました。
今世界では日本庭園はある種のブームをつくっています。海外の庭園愛好家の多くは、日本庭園には「何かあるぞ」との感覚を持っています。今日、この感覚に応えるべく、まさに実体験(見て感じる場と経験)を通した「人と庭園の関係の本質」に添う新しい日本庭園の役割を、日本における地方地域の日本庭園で実証し、広く社会に投げかけていきたいと考えています。「ガーデンツーリズム」の本質も、実はここにあるのではないかと考えています。
刈羽・柏崎には一つの庭園文化があった。いや、それは新潟地方において初めての作庭システムとそのプログラム(本格的な築庭指導とその技術継承の文化)でもあった。これを成した人物とは、明治時代、この地で数々の名園を残した相澤熊蔵(文政5年‐明治38年)という庭師だった。
相澤熊蔵は、文政5(1822)年に江戸向島で平岡三四郎の長男として生まれ、家は徳川家本丸並びに西丸の築庭に従事するなど代々徳川家及び諸侯に仕える庭師の家系だったようだ。明治元(1868)年柏崎に移り、当地枇杷島で所帯を持ち、その後、加納(当時は刈羽)に移り住むことになり、「相澤」とした。
熊蔵の作風は、周りの環境を巧みに利用して、面積の大小にかかわらずスケールの大きな自然風景を生み出すといったもので、これについて「四周の天然の景をも巻き入れより美しい天然の美を醸し出すことにあった。
相澤熊蔵は松や〈屋〉爺さんと呼ばれていた。相澤熊蔵は多くの弟子を取り育てた。熊蔵の晩年の弟子の一人笠原米作は、熊蔵が泰治(泰阿弥)について「幼い頃、熊蔵はサイの目は大きいから気に入った子だと将来を嘱望していた」ことを述懐している。泰阿弥は若い頃、庭師だった米作の庭づくりを手伝っている。
泰阿弥は、昭和4(1929)年京都・銀閣寺洗月泉滝石組を発掘したことなどで名を馳せ、以後、作庭や古庭園の発掘・復元・修復のため全国を駆け巡るようになった。昭和初期から新潟地方の名士や豪農の庭園整備を行い、後に室町幕府の同朋衆の阿弥号を冠した。高柳の貞観園、沢海の伊藤邸、関川の渡辺邸、新発田の清水園などが代表作である。郷里新潟への深い想いと庭園をこよなく愛し、自ら質素を旨とした泰阿弥の生き方はどこか相澤翁に似ている。
龍雲寺庭園 (柏崎市黒滝)
龍雲寺は、享徳元(1452)年に龍(りゅう)雲(うん)玄(げん)珠(しゅ)が開山した名利で、天明の飢饉救済事業として桑名家・老田兵右衛門が作庭の指揮を執ったと伝えられる。庭園は本堂前の庭と裏山を取り込んだ書院西面の庭で、西庭は山裾を斜面ごと築山と見立てたもの。この庭中央にはU字形の池があり石橋が架かる。石組で護岸を成形した流れと滝石組を合わせた池泉庭園である。池の対岸斜面は、当地裏山付近で産出した大小の山石を巧みに積んで土留めとし、所々に同質の平石を小端積みして使用するなどコントラストが効いている。平石使いの飛石の打ち方や階段には技巧が無く素朴で、ツツジなどの低木はすべて刈り込みで丸く造形し積雪に対応した典型的な雪国の庭である。斜面全体は立石が林立して須弥山の世界観を表現しており、その立石群は本堂を向いている。更に斜面中腹には阿弥陀三尊石があり、このほど近いところには観音像が置かれ、滝全体は観音信仰に基づく補陀落山を見立てた造形と見える。後背林はスギを主体とした混交林で、主景木はスギである。石組や池護岸に若干の改修の跡が見られるものの作庭当初の面影をよく伝えている。
林富永邸庭園(上越市三和区神田)
富永家の本家は、江戸時代庄屋役を務めた名家である。明治8(1875)年、四代目富永護右衛門がかつて高田藩の御林だった当地を購入し、明治16(1883)年に邸宅を建造して現在に至る。林富永は屋号であり、ここが「立林」だった地名によるもの。
庭園は、母屋の南面及び西面にかけてつくられおり、庭一面に杉苔ほかの苔類が広がり「ふところ」と呼ばれる庭園中心部は開放的で広い。周辺はスギで囲繞されて背景を成しているが、庭園林縁部にはモミ、サワラ類、そして園内の景観木にはシダレザクラ(樹高15m)や各種モミジ類、アカマツ、ウメなどがみられる。
庭園の造形要素としては南面の奥に築山があり、形状は「心字」を模しているという。また同面中心部には島があり、モミジを中心にして景石が組まれている。また建物際に沿って延べ段あり、南面は四盤敷で意匠性が高く西面は御影石平板敷きでシンプルな味わい。庭園形式は新潟でいう回遊式の平庭であり、一部、西面で借景要素として鉾が岳、権現山、水田を取り込んで奥行き感を演出している。
目黒家庭園 (魚沼市須原)
目黒家は桓(かん)武(む)平氏(へいし)の末裔(まつえい)。応仁の乱の頃、勢州(伊勢)目黒に居た。のちに芦名家に仕え、主家滅亡の後、天正18(1590)年に越後北魚沼の入広瀬の地で帰農したと言われている。
目黒家の初代右衛門は、禅宗普門院を天正12(1584)年に開基し、江戸時代初期、慶長年間(1810年代)に上条郷15ヵ村の肝煎りを務めている。
元禄年間(1690年代)には上条郷25ヵ村の庄屋の総代、中庄屋になっている。江戸時代中期・宝暦5(1755)年、糸魚川藩領須原村の庄屋であった八代目五郎助は割元役になっている。現存する目黒家住宅は寛政9(1797)年に十一代目五郎助が建てた、割元庄屋の役宅を兼ねた住宅である。庭園は安政3(1856)年の家相図にすでに描かれており、母屋は寛政9年に建築されていることから作庭は江戸後期と思われるが、小池は家相図には無く、新座敷(橡(ちょ)亭(てい))の建築(明治34(1901)年)と共につくられたと推測される。
庭園は母屋の北東に2ヵ所あり大小の池泉があり、現在は水源を近在の川から求めている。石動山の斜面を取り込み、大池(佐渡ヶ池)の中心に中島をつくり、稲荷社や石動社(いするぎしゃ)を配した池泉廻遊式庭園で起伏に富んでいる。建物周辺には軒内に迫る小池(池泉)のほか複数の貯水池があって水路が張り巡らされている。豪雪地帯の当地で、いち早く雪を融かす消雪装置として池泉を含めたこの水系が機能している。
3. 地域計画
造園の本質や持ち味を失わずに、造園の殻から飛び出して、
広範な社会の中で造園の良さをどう生かしていくかをテーマにした
集落再生プロジェクト
b.ヒストリカル・ライン構想-新潟市中心市街地における緑の都市計画・システムとプログラムの構築-
本構想は、衰退が著しい新潟市の中心市街地において広義の公園緑地論または都市計画論を援用しつつまちなかの公園を再整備し、線で結んでそれぞれを拠点化し、隣接するそのエリア内を歩ける多様な生活文化空間として再整備して、緑の多い広がりのある面として捉え、快適でわくわく感のある潤いの空間を目指して創造するみどり主体の再生計画の構想であり「ヒストリカル・ライン構想」と名付けました。
この構想では、狭義には「緑のまちづくり・都市デザイン」をどう展開するかが大きなテーマであり、今まで長いこと公園配置論や公園機能論など一元的に語られてきた公園を、新たに現代社会が求める場のありようとしてその目的に立ち戻り➀美しくなければならないこと、②目的がなくても立ち寄れる「待ちの場」であること、③都市にふさわしい自然味があること、④新潟らしさ(地域性とアイデンティティ)があることなどを含め、これ以外にも構想遂行の際にはまちなかの公園が持つ特質的な意味も再考することによって、あらためて現代における中心市街地で新時代の公園を語る要素の重要性について総合的かつ具体的に提案することにあります。
本構想では、新潟市域・まちなかにおけるいくつかの公園を主体に街路樹、産官民緑地、個人庭、河川景観や空の広がりまでも含め、個から線へ、そして面へと拡大させ、風土に合わせて形成された新潟らしさを、まちににじませていくシステムとプログラムの構築を目的としたものであり、造園家が発想する新たなまちづくりの戦略でもあります。
7つのキーワード
1.歴史文化の現代的応用
2.食の創造と連携
3.大人の社交場
4.まちの中の滞留(例:待ちの場つくり)
5.グリーンインフラ
6.都市の品格とは何か
7.人と自然との関係の本質
6つのポイント
1.周遊
2.現代性
3.まちの審美性
4.インバウンド
5.日本庭園的なるもの
6.文化施設との連携
必要不可欠なもの
1.地域連携と各種組織団体の形成と支援
2.行政の支援と参加
3.エリアマネージメント+アーバンマネージメント
課題
1.方法論の確立(やり方はいろいろある)
2.市民からの理解と支援ほか
4. 社会活動
旧伊藤家庭園のガイドを養成するための講座の開催とガイドする順序に従って分かりやすく解説した冊子
2012年、10月に米国デンバーで行われたアメリカ日本庭園会議で、「姉妹庭園締結」について発表してきました
この発表成果を含めた私の今までの造園活動の一端を紹介した展示会(旧齋藤家別邸で開催)